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1960年の大統領選

1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬[1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方で野党・民主党も趙炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中の2月15日に趙炳玉が死去[2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領選挙は張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙[3]を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[4]。これに対し民主党は投票締め切り30分前に、本選挙は不正選挙で無効であることを宣言した

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3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、民主党側の投票立会人が強制的に投票所から追い出されたことをきっかけに、学生と市民が大統領選の無効を主張して街頭デモを起こした。これに対し警察はデモ参加者に無差別発砲し、8名が死亡、50名余が負傷し、デモは鎮圧された(第一次馬山事件)。しかし、4月11日に、前月15日のデモに参加して行方不明になっていた馬山商業高校学生の金朱烈(???)が変死体で発見[5]され、学生・市民が再び街頭デモを展開、反政府機運が高まった(第二次馬山事件)。馬山事件は全国の学生達の李承晩政権に対する反感を一掃強めた。4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、警察によるデモ隊への発砲等で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告したが、軍は政治的中立を維持、デモ隊鎮圧のための積極的行動は行なわなかった。事態収拾のために4月24日に李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中[6]という悲惨な結果となった。また、不正選挙に関連した閣僚9人、自由党幹部13人が逮捕された。デモ隊へ向けての発砲を命じた崔仁圭内務長官、郭永周大統領警護室長や暴力団幹部らは死刑になった。

この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。

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2009年04月28日 10:49に投稿されたエントリーのページです。

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