2009年06月18日

クロルプロマジン(Chlorpromazine)は

クロルプロマジン(Chlorpromazine)は、フランスの生化学者アンリ・ラボリ(Henri Laborit,1914-1995)が1952年に発見した、フェノチアジン系の精神安定剤である。「クロルプロマジン」はINNの一般名で、化学名は2-chloro-10[3(-dimethylamino)propyl]phenothiazine、化学式はC17H19ClN2S?HCl、CAS登録番号は50-53-3。メチレンブルー同様、フェノチアジン系の化合物である。一塩酸塩が医薬品として承認され利用されている。

1950年、フランスの製薬会社ローヌ・プーラン社(Rhône-Poulenc,現サノフィ・アベンティス)により抗ヒスタミン薬として開発されたものの、鎮静作用が強すぎる上、抗ヒスタミン作用が少ないと当時は評価された(整理番号は4560RP)。

ドパミン遮断剤のほか、古くからヒベルナシオン(hivernation)という麻酔前投与剤として知られていたが、この薬効がドパミン遮断効果(その作用機序は、脳内の中枢神経系で興奮や妄想を生み出すと想定される神経伝達物質ドパミンのD2受容体の回路を遮断する事にある)を有することは、ラボリの発見まで知られていなかった。
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約12.5 mg程度で乗物酔の防止効果と悪心の防止効果を生じ、精神神経疾患に対しては、アメリカでは1,000 mg / 日程度のいわゆる『1キロ投与』の統合失調症の障害治療に発明当初から広く使用された。ヒベルナシオンとしての麻酔前投与も古くから行なわれ、この用途では前記発明以前から知られていた。日本では、クロルプロマジンの迂回発明が大阪地方裁判所(昭和35年9月11日言渡:判例時報162号23頁)で認められ、吉冨製薬がその迂回発明に拠る製法特許を取得し、市場の西半分は「コントミン」が占有し販売されている。ノバルティスの輸入品は「ウインタミン」(塩野義製薬取次)の商標を使用している。

クロルプロマジンの発明が病院の神経科の「閉鎖病棟」を開放する大きな動機づけとなったことは良く知られている。ドパミン遮断薬としては最も歴史が古く、その塩の成分により、前者の迂回発明による吉冨製薬迂回製法によるクロルプロマジン剤と塩野義製薬の正規輸入クロルプロマジン剤とで多少の差異があるものの、薬効には差異はみられない。なお、吉冨製薬(現「田辺三菱製薬」)はこの当事者系特許侵害訴訟(塩野義製薬が原告で請求棄却)に勝訴し、日本でのクロルプロマジンのシェアを寡占状態近くにまでのばし、旧来の一流製薬企業に比肩することになった。

2009年05月31日

地租改正反対一揆

地租改正反対一揆(ちそかいせいはんたいいっき)とは、1873年より明治政府によって推進されてきた地租改正に反対する農民一揆である(ただし、近年の研究では合法的闘争による例も多かったとされていることに注意が必要である)。

基本的には「全国画一」の地租への統合を従来通りあるいはそれ以上の水準で農民に賦課しようとする明治政府と生活の維持・改善のために生産余剰の確保を求める農民側との対立ということになるが、今日では世直しを求める側面や一揆の動機・目的・要求などに大きな差があること、全てが一揆の形態ではなく、自由民権運動との連携を通じた署名・意見書などの提出による合法的な反対闘争の存在などが分かっている。
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大きな流れとしては、

廃藩置県後より続く、石代納の高率に対する減免要求を地租改正の過程で求めるもの。
地租改正のための地押丈量やその後の地券発行、石代納そのものの廃止(金納化)、田地の地位等級や収穫高の規定とそれに基づく地価の決定に対する反発など実際の地租改正作業を巡るトラブル。
従来、入会地とされてきた土地や森林が、地租改正と並行して行われた官有民地区分事業において「持主不明」であることを理由に官有地や御料林に組み入れられて住民の自由な利用が禁止されたことに対する農民の抵抗。
地価決定後の税率見直を求める運動や新地価に基づく小作料の改訂に対する小作争議。
が挙げられる。

石代納減免を求める1874年の山形県ワッパ一揆や入会地の官有地編入に抗議して3万人が実力行使に及んだ1881年の群馬県入会地騒擾なども著名であるが、大きな反対一揆は実際に地価の決定などの作業が進められた1875年から1877年にかけて相次ぎ、特に1876年11月から数ヶ月間において、茨城県・三重県・愛知県・岐阜県・堺県(現在は大阪府南部と奈良県に分割)・熊本県で相次いで一揆が発生した。ただし、この時期においても愛知県春日井郡や石川県越前7郡(現在は福井県)での反対闘争のように一揆の可能性を秘めながらも自由民権運動家などと連携して数年単位での合法的な反対闘争を続けた例もあり、近年ではそうした活動に対する研究も行われている。

これに対して明治政府は1877年1月に地租を3%から2.5%に引き下げる決定をしたものの、地租改正事業の中止には応じず、1881年6月30日の地租改正事務局の閉鎖に伴って地租改正の終了が宣言され、遅れていた山林などにおける官有民地区分事業も翌年7月に終了している。以後、反対闘争は自由民権運動以後の「地租軽減運動」や初期帝国議会における「民力休養」論などに舞台を移すことになる。

2009年04月28日

1960年の大統領選

1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬[1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方で野党・民主党も趙炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中の2月15日に趙炳玉が死去[2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領選挙は張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙[3]を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[4]。これに対し民主党は投票締め切り30分前に、本選挙は不正選挙で無効であることを宣言した

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3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、民主党側の投票立会人が強制的に投票所から追い出されたことをきっかけに、学生と市民が大統領選の無効を主張して街頭デモを起こした。これに対し警察はデモ参加者に無差別発砲し、8名が死亡、50名余が負傷し、デモは鎮圧された(第一次馬山事件)。しかし、4月11日に、前月15日のデモに参加して行方不明になっていた馬山商業高校学生の金朱烈(???)が変死体で発見[5]され、学生・市民が再び街頭デモを展開、反政府機運が高まった(第二次馬山事件)。馬山事件は全国の学生達の李承晩政権に対する反感を一掃強めた。4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、警察によるデモ隊への発砲等で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告したが、軍は政治的中立を維持、デモ隊鎮圧のための積極的行動は行なわなかった。事態収拾のために4月24日に李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中[6]という悲惨な結果となった。また、不正選挙に関連した閣僚9人、自由党幹部13人が逮捕された。デモ隊へ向けての発砲を命じた崔仁圭内務長官、郭永周大統領警護室長や暴力団幹部らは死刑になった。

この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。

2009年04月12日

大国主

大国主(おおくにぬし)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神である。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する神格でもある。

大国主は多くの別名を持つ。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされる。

大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(おう=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もある。
大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記』での呼称
大名持神(おおなもち)
八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこのを) - 「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
大物主神(おおものぬし)
大國魂大神(おほくにたま)
顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)

出自・事績 [編集]
『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。

スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。国土を天孫・瓊瓊杵尊に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となる。

因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。

因幡の白兎
大国主の神話(八十神の迫害・根の国訪問・大国主の妻問い)
大国主の国づくり
葦原中国平定

妻・子孫
大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。古事記には180柱、日本書紀には181柱と書かれている。

正妻であるスサノオの娘のスセリビメについては、記述がない
高志の国の奴奈川姫命(沼河比売)についても記紀神話での記述はないが、葦原中国平定において大国主の子として登場する建御名方神(タケミナカタ)が奴奈川姫との間の子であるという伝承が残されている。
最初の妻のヤガミヒメとの間に木俣神
宗像三神のタキリビメとの間にアヂスキタカヒコネ(賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ)の二神
カムヤタテヒメとの間に事代主
ヤシマムジの娘のトトリヒメとの間にトリナルミ。以降、トリナルミの系譜がトリナルミ以下9代列挙されている。
大国主の求愛を拒んだ女性に、出雲郡宇賀郷のアヤトヒメがある。拒んだ理由として、スセリヒメが嫉妬深い性格であること、スセリヒメの嫉妬を想像したヤカミヒメが子供を斐川町直江で放棄し、故郷の因幡の国にもどってしまったことがあげられ、「出雲風土記」に記載されている。
信仰・伝承 [編集]
国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰されている。また、「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透している。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになった。

大国主を祀る主な神社 [編集]
大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)、気多本宮(同七尾市)、大國魂神社(東京都府中市)のほか、全国の出雲神社で祀られている。

大国主・大黒天を祀る主な寺院 [編集]
寺院

浅草寺(東京都台東区)米びつ大黒/浅草名所七福神
宝積寺(大黒天宝寺)(京都府乙訓郡大山崎町)大山崎大黒天/京都六大黒天
妙円寺(京都府京都市)松ヶ崎大黒天/都七福神
安楽寺(愛知県蒲郡市)三河七福神
普門寺(愛知県豊橋市)吉田七福神
福海寺(兵庫県神戸市)柳原大黒天/摂津国・諸山  兵庫七福神

ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

2009年03月28日

生地の厚み

「オンス (OZ) 」という単位で表され、ジーンズ一本の重さではなく1平方ヤードの生地の重さを表したもの。一般には「オンス=生地の肉厚」と思われているが、それは誤りである。

1オンス = 28.3g弱。1平方ヤード = 0.84m?。

一般的には14オンスほどの厚みが多く、しなやかな履き心地がある。厚いほど生地は硬くゴワゴワし、馴染むまで時間がかかる。その硬さは洗濯し天日干しすると、壁に立てかけられるほどである。まさに丈夫で破れにくいのだが、夏場は非常に暑い。一方作業着ではなく、ファッションアイテムとしてのジーンズでは12.5オンス、11オンスなどがある。

洗濯 [編集]
特に日本の若者のジーンズファンの間では、ジーンズは洗濯しない物という考えが広まっている。色落ちや不格好な皺が出来るのを嫌っての事であるが、洗濯しない衣服はジーンズに限らず当然ながら非常に不衛生である。特に、ジーンズの内側はこすりつけられた脚の皮脂が付着するので、それを栄養にしてカビが発生する事さえある。さらに、汗と油によって生地そのものが傷むので、本来作業着であるはずのジーンズの強度が極端に落ちてしまうという弊害もある。

よって、メーカーや専門家などは洗濯を勧めている。方法としては、生地の表面が洗濯機の内側で擦れて不必要な色落ちが起きないように裏返しにしてから、普通の衣服と同様に洗剤を使い、洗濯機で洗うのが一般的である。ただし、ジーンズは色移りの危険があるため、少々不経済ではあるが単品で洗濯した方がよい。最低でも、水洗いは行わないと清潔な状態にはならない。

また、色落ちを出来るだけ防ぐためには洗濯石鹸や中性洗剤を使用するのが望ましいとされる。洗剤の中には、蛍光剤や漂白剤が入っている場合があるので、洗剤選びには注意が必要である。近年では、ジーンズ専用の洗剤も発売されている。
むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ

ダメージ加工 [編集]
履き古したような色あせや傷、皺がジーンズの魅力の一つである。ジーンズの熱心なファンは、わざとやすりやナイフで傷を付ける、何度も洗濯機で洗う、漂白剤で浸す、接ぎ当てをする、刺繍を入れるなど様々な方法でジーンズにわざとダメージを与え、個性的なジーンズを作り上げ、魅力をアピールする。これをダメージ加工という。

近年では、最初から自然な色あせを作ったり、破いたりするなどダメージ加工を施してから売り出すジーンズ専門店もある。店によっては、魅力的なダメージ加工を施すスタッフ個人にファンが付く場合もある。そのようなスタッフは一種のアーティストとも言える。

ただ、ダメージ加工はデニムの生地を痛めるため、通常のジーンズよりも耐久性が落ちるのが欠点である。

2009年03月13日

フェルクリンゲン製鉄所

フェルクリンゲン製鉄所 (Völklinger Hütte) は、ドイツの1世紀を超える歴史を持つ旧製鉄所である。銑鉄精錬の全工程を追体験できる施設は他に類例がない。この製鉄所は『工業文化のイコン』あるいは『労働のカテドラル』と称される。

1994年、ユネスコはフェルクリンゲン製鉄所を世界遺産に登録した。これは産業遺産としては世界初の例であった。2007年にはドイツにおける歴史を象徴する産業建築にノミネートされた。

世界文化遺産フェルクリンゲン製鉄所は、現在ヨーロッパの産業文化遺産の中で最も重要な位置を占めている。ヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントである。また、フェルクリンゲン製鉄所内では多くの文化行事が開催されており、年間20万人を超える訪問者がいる。

すべては、1873年に製鉄技術者のユリウス・ブーフがザール川に面したフェルクリンゲン近郊に製鋼所を創設したことに始まる。この製鋼所は、わずか6年後には銑鉄に対する高い関税が原因で精錬の採算が合わなくなったため、閉鎖された。

1881年にカール・レヒリンクにより新しい精錬工場が設けられた。彼は閉鎖されていた施設を買い取り、2年後に最初の溶鉱炉を稼働させた。その後、早くも1890年には、「Röchling’schen Eisen- und Stahlwerke」(レヒリンク製鉄・製鋼所)は、鉄製トラスのドイツ最大の生産者となっていた。

1年後に、フェルクリンゲン製鉄所にトーマス式製鋼所が開業した。トーマス転炉の採用は比較的遅かったものの、たちまち成功がもたらされた。隣接する地域であるロートリンゲンの鉄鉱石がフェルクリンゲン製鉄所にもたらされた。この地方の鉄鉱石は1963年まで、この製鉄所の溶鉱炉で原料として用いられていた。

鋼精製に必要な高温を得るためには、石炭だけでなく、特にコークスが必要となる。このため、1897年に、溶鉱炉のすぐ隣にコークスの生産工場が建設された。3年後、この施設初のガスブロワーが稼働した。1911年には溶鉱炉に原料を投入するためのクレーン施設も建設された。

1928年に焼結技術がもたらされ、フェルクリンゲン製鉄所はヨーロッパで最新・最大の焼結施設を持つこととなった。これにより生産過程の廃棄物リサイクルが可能となった。

第二次世界大戦中には約7万人の強制労働者や戦争捕虜が鉄鉱石採掘、製鉄あるいはザール地域の工場で労働に従事した。比較的軽い労働には女性も就労させられ、それまでは立ち入りが禁止されていた生産現場でも働かされた。戦争末期には14,000人の、ロシア、ポーランド、ユーゴスラヴィア、フランス、ベルギー、ルクセンブルクなどから連行された男女が極めて過酷な条件下での労働を強いられていた。[1]ドイツ各地の製鉄所や機械工場が激しい爆撃を受ける中、フェルクリンゲン製鉄所はほとんど無傷のまま終戦を迎えた。この事実は「フェルクリンゲンの奇跡」と呼ばれている。なぜ、この製鉄所だけが攻撃を免れたのか、様々な憶測がなされているが真相は明らかにされていない。
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戦後のヨーロッパ復興の過程で、この製鉄所が無傷で残され、ただちに生産に取りかかれたことの意味は計り知れないほど大きなものであった。戦後の建設ラッシュを背景に1952年にこの製鉄所の生産はピークに達した。1956年末にザールラントがドイツに復帰すると、旧創業者のレヒリンク家がフェルクリンゲン製鉄所に戻ってきた。

1965年の生産部門・管理部門を合わせたフェルクリンゲン製鉄所の総従業員数は17,000人に及んだ。しかし、1975年の鉄鋼危機にフェルクリンゲン製鉄所も巻き込まれた。ルクセンブルクの鉄鋼財閥Arbedが、1971年までザールラントで操業していた「Vereinigten Hüttenwerken Burbach-Eich-Düdelingen」(ブアバッハ=アイヒ=デューデリンゲン製鉄グループ)とフェルクリンゲン製鉄所を合併し、「レヒリンク=ブアバッハ製鉄所」としてレヒリンク家とともに運営することとなった。この製鉄所は、1982年にノインキルヒェン製鉄所を併合し、Arbed Saarstahl GmbHとなり、これによりレヒリンク家は経営から退いた。1989年以降、この会社はSaarstahl(ザールシュタール)と称している。

1986年にフェルクリンゲン製鉄所の溶鉱炉は操業停止となり、産業記念建造物として保護建造物に登録された。長い修復と構内通行の安全確保がなされた後、博物館として運営されるようになった。

1994年、ユネスコはフェルクリンゲン製鉄所を世界文化遺産に登録した。

2009年02月24日

J・R・R・トールキン

ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien 1892年1月3日 - 1973年9月2日)は英国の文献学者、作家、大学教授で、なによりも『ホビットの冒険』とその続編『指輪物語』の著者として知られている人物。オックスフォード大学の古英語の教授(1925年?1945年)。同大学の英語・英文学教授(1945年?1959年)。カトリック教会の敬虔なる信者。文学討論グループ「インクリングズ」の会員で、同会所属の英文学者C・S・ルイスの親友。CBE受勲者。『研究社英米文学辞典』では英語音により近いトルキーンと記されており、またトーキンと呼ぶ人もある。[1]

トールキンの作品としては、『ホビットの冒険』、『指輪物語』に加えて『シルマリルの物語』やトールキンの死後に出版された本もある。死後に出版された本は(トールキンが残した文章を)息子のクリストファ・トールキンが編集し、ひとつに集成したもので、そこには物語、架空の歴史、人工言語、文学的試論などが含まれている(文学的試論は“アルダ” や "中つ国[2]"と呼ばれる架空の国に関するものである)。トールキンはこのような書き物の総体を “legendarium” (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた。また、legendariumとは直接には関係は無いが、自分の子供たちに宛てた文章をまとめた児童書なども、現在では出版されている。

トールキンの父方の先祖のほとんどは職人であった。トールキン家の故郷は、現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという[3]。苗字の「Tolkien」は、ドイツ語の「Tollkiehn」(注. tollkühnは"無鉄砲"の意)を英語化したものである。あえて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注. 日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法の言葉である[4]。

トールキンの母方の先祖として、ジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持っていた。サフィールド家は、1812年以来、Lamb Houseと呼ばれるビルで商売をしていた。同年以来、ウィリアム・サフィールドが、書店と文房具屋を経営していたのである。トールキンの曾祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から、服地と靴下を商っていた
トールキンは、1892年1月3日にオレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ローウェル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。

アフリカに住んでいたとき、トールキンは庭でタランチュラに噛み付かれた[7]。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時、母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった[8]。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホールに移った。ここは当時ウースターシャーの村で現在はバーミンガムの一部である[9]。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる。

メイベルは二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[11]。母は植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは、風景と木を描くのを好んだ。しかし、トールキンの好きな科目は言語に関するもので、母は早いうちからラテン語の基本を教えた[12]。その結果トールキンはラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。彼はバーミンガムのキング・エドワード校に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力した[13]。セント・フィリップス校、そしてオックスフォード大学のエクセター学寮に進む。

1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗した[14]。そのため、彼女に対する全ての財政援助は中断された。その母が1904年、トールキンが12歳の時に糖尿病で亡くなった。トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった[15]。この出来事はトールキン個人のカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、トールキンの信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかし、ルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった[16]。

孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区にある、バーミンガムオラトリオ会のフランシス・シャヴィエル・モーガン司祭であった。司祭の庇護の下、トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設のビクトリア風の塔の影に住むことになった。この頃の住環境は、かれの作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。

青年時代
トールキンは、16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い恋に落ちた。フランシス神父は、会うことも話すことも文通することも、かれが21歳になるまで禁じた。かれはこの禁止に忠実に従った[17]。

1911年に、バーミンガムのキング・エドワード校に在学中、トールキンと3人の友人、ロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、およびクリストファ・ワイズマンは彼等が「T.C.B.S.」と呼んだ「秘密結社」を作った。学校の近くのバロウズの店や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である[18]。学校を去った後も、メンバーは連絡を保ち続けた、そして、1914年12月にかれらはロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになった。

1911年夏、トールキンは友人たちとスイスに遊びに行った。彼が1968年の手紙[19]で生き生きと思い出す旅行となった。彼等12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでミュレンを通り氷堆石で野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、トールキンはユングフラウとシルバーホルン(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪のを見てそこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデックを過ぎてマイリンゲンに行った。さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレー州を通りブリーク、そして、アレッチ氷河とツェルマットに着いた。

21回目の誕生日の晩に、トールキンはエディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだ。エディスの返信には、トールキンが自分を忘れてしまったと思ったので、婚約したとあった。ふたりは、鉄道陸橋の下で出会い愛を新たにした。エディスは、指輪を返しトールキンと結婚する道を選んだ[20]。婚約の後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した[21]。1913年1月にバーミンガムで婚約して、1916年3月22日にイングランドのウォリックで結婚した[22]。

1915年に優秀な成績で英語の学位を取り(エクセター学寮で学んでいた)オックスフォード大学を卒業した後に、トールキンは第一次世界大戦にイギリス陸軍に従軍し、少尉としてランカシャー・フュージリア連隊の第11大隊に所属した[23]。彼の大隊は1916年にフランスに移動し、ソンムの戦いの間通信士官として、10月27日塹壕熱を患うまで勤め、11月8日イギリスに戻った[24]。多くの親友も同然だった人たちも含め自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー、グレート・ヘイウッドで療養していた間に、「ゴンドリンの陥落」に始まる、後に『失われた物語の書』と呼ばれるものについての着想が芽生え始めたとされる。彼の病気は1917年から1918年にかけて、再発し続けたが、あちこちの基地での本国任務ができるほど回復して、中尉に昇進した。 トールキンがある日キングストン・アポン・ハルに配置されたとき、彼とエディスはロス近くの森に行き、そして、エディスは彼のためにヘムロック(ドクニンジン)の花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」[25]。この事件からがベレンとルーシエンの出会いの話の着想をえ、トールキンがしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ。
ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

キャリア
トールキンの第一次世界大戦後最初の民間の仕事は、オックスフォード英語辞典の編纂作業だった。Wで始まるゲルマン系の単語の歴史や語源を中心に担当した[27]。1920年、リーズ大学で英語学の講師の地位を得、1924年に教授となったが、1925年秋から、ペンブローク学寮に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授として、オックスフォードに戻った[28]。

ペンブロークにいる間に、トールキンは『ホビットの冒険』と『指輪物語』の『旅の仲間』と『二つの塔』を書いた。また、1928年、Mortimer Wheelerがグロスターシャー、Lydney ParkのAsclepieion(古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた[29]。トールキンの学術的な刊行物の中では、特に1936年に講演され、翌年に出版された“Beowulf: the Monsters and the Critics”は『ベーオウルフ』研究において、また広くお古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた[30]。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、トールキンが純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。[31]。しかしまた、彼はいわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した。[32] 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される[33]。トールキンがこれを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、Finnesburgの戦いの挿話および古英詩断片のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、トールキンは空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)。

1945年にはオックスフォードのマートン学寮に籍を置くマートン記念英語英文学教授となり、1959年に引退するまでその職位にいた。トールキンは1948年に『指輪物語』を完成した。最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代、トールキンはStoke-on-Trentにある、息子のジョン・フランシスの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。トールキンは、イギリスの田園をむさぼり食うと考えた工業化の副作用を激しく嫌悪していた。大人になってからの人生の大部分で、かれは自動車を避けて、自転車に乗るのを好んだ[35]。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄の無理矢理な工業化などかれの作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。

W・H・オーデンは『指輪物語』に熱狂しトールキンに手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なもののひとりだった。トールキンは、1971年の手紙で、

「近年私は非常に深くオーデンに世話になっている。彼が私を支持してくれて、私の作品に関心を持ってくれるので、非常に元気づけられた。一般にはそういう批評がなかった最初の頃に、彼は非常に良い批評や手紙を送ってくれた。実際、彼はそれの為にあざけられた」
と書いた。

トールキンは妻エディスとの間に4人の子供を儲けた。ジョン・フランシス師(1917年11月16日-2003年1月22日)、マイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年10月-1984年)、クリストファ・ジョン・ロウエル(1924年11月21日)、そしてプリシラ・アン・ロウエル(1929年)である。

2009年02月08日

タイの歴史

タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国の歴史を時代ごとに述べる。
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

東南アジアでの人類の居住は、50万年以上遡る。バーンチエンにおけるような最近の考古学の研究によると、紀元前4000年までには、現在のタイの土地に初期の青銅器文明の中心地としてコミュニティーが出現したとされる。この発展によって、水稲の耕作に伴って、社会的政治的な組織構成が進んだ。タイから中国も含むアジア全域までこれらの革新が伝わった可能性を示唆する研究もある。マレー人、モン族およびクメール人の文明が繁栄していた。現在この地に住むタイ人は、中国南部起源の民族と言語的に関係があり、6世紀?7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい。

スコータイ王朝
現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を13世紀としている。伝承によると、1238年、タイ民族の指導者がスコータイでクメールの大君主を倒し、タイ王国を設立したという。その王国の衰退の後、1350年に新しいタイの王国がチャオプラヤー川沿いに成立した。スコータイ王国と時を同じくしてタイ北部のチエンマイから中国のシップソーンパンナーにかけてラーンナータイ王国が繁栄した。

アユタヤー王朝
アユタヤー王朝の最初の王ラーマーティボーディー1世は、タイの歴史に対して2つの重要な貢献をしている。1つは、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進したこと、すなわち、タイ王国と近隣のアンコールのヒンドゥー教国を区別したこと、2つ目は、ヒンドゥー教由来の法典でありタイの伝統的な慣習となった、ダルマシャースートラを編集したこと、である。19世紀後期まで、ダルマシャースートラはタイの法律を成す一部として残った。アユタヤーは、16世紀にポルトガル人から始まって、西洋といくらか接触をもっていたが、1800年代までは、インドや中国、近隣諸国との関係が最も重要であった。

トンブリーからバンコクへ
400年間以上の王権の後、1767年にアユタヤー王朝は隣国ビルマ軍の侵入により破滅し、首都は焼き払われ、国は6つに分割された。タークシン将軍は、新首都トンブリーを拠点としてタイ王国を再統合することに成功し、1769年に王となった。これがトンブリー王朝である。しかしその後、タークシン王は精神の病に侵されてしまい、1782年にチャックリー将軍がチュラローク王(ラーマ1世、チャクリー王朝の最初の王)として彼を継いだ。同年、ラーマ1世はトンブリーからチャオプラヤー川を渡った河口の平原バンコクに新しい首都を建設した。ラーマ1世の後継者達は、1826年に隣国ビルマに英国が勝利した後、次第にヨーロッパ諸国の植民地主義の脅威に晒されるようになった。

アジア地域における西欧列強の力をタイが認識し始めたのは、1826年の英国との友好通商条約であった。1833年には、アメリカもタイ王国と外交上の交流を始め、タイは1939年まで(その後、再び1945年?1949年の期間)招かれた。しかし、タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のモンクット王(ラーマ4世、1851 - 1868年)と彼の息子チュラーロンコーン王(ラーマ5世、1868 - 1910年)の統治中のことであった。この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた南・東南アジアで唯一の国になった、とタイ人は信じている。イギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の緩衝国となったことも独立の維持に役立った。この歴史は、1949年5月11日に公式に宣言された現在の国名 Prathet Thai(?????????)(1939年から1945年の間も非公式に使用されていた)に反映されており、prathet(??????)は「国家」、thai(???)は「自由な」を意味している。

民主主義時代のタイ
1932年の人民党によるクーデターは、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行させた。プラチャーティポック王(ラーマ7世)は最初この改革を認めたが、その後1935年、10歳の甥アーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)に王位を譲渡した。退位の際、プラチャーティポック王は、「私は人民のみのために、元々私に有ったところの権力を放棄する心の準備は出来ている」と言った。

第二次世界大戦
プレーク・ピブーンソンクラームが実権を握っていたタイは、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した直後に中立宣言を出していたが、しかし1940年に日本軍が仏印に進駐すると、ピブーンソンクラームはこれをすぐに翻し、1940年9月10日に隣国の仏領インドシナと対仏国境紛争を開始した。国境地帯において、タイは旧領回復のために出動し、12月にはフランス軍との戦闘となった。が、翌年1月に日本の仲介により講和を締結し、仏印の一部を自国領に併合した。

アジア地域に拠点を欲していた日本はタイへの接近を図った。1940年に日泰和親友好条約を締結。その後1941年12月7日にイギリスやアメリカなどの連合国軍との間に開戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島やビルマへ向かうためタイに上陸し小規模な戦闘を行うなどした。さらに、タイ南部シンゴラ(ソンクラー)などに奇襲上陸すると、日本軍との小規模な戦闘が発生する。その後はタイは日本軍の通過を認めた。こうした日本の圧力や、日本軍の緒戦の勝利を背景として、1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった。

その後の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に同月25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻しイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国となり参戦することになった。

その後1942年4月ごろ、後に首相になるセーニー・プラーモートは、日泰攻守同盟条約をもとに祖国が日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、「自由タイ」という抗日運動をアメリカ留学仲間と始めた。これは後にイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスでは自由タイのメンバーはイギリス兵として受け入れられ、特殊訓練が施された。またピブーンソンクラーム内閣の閣僚で、タイ国内にいたルワン・プラディットマヌータム(本名プリーディー・パノムヨン、摂政で後の首相)までも参加していた。むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが黙認し、一方で日本に対しては「自由タイ」などないかのように振る舞っていた。

しかし、1944年頃より日本の敗色が濃くなるとプリーディーが「自由タイ」を指揮するなど急速に連合国との関係を強め、1945年8月に日本が連合国に対して敗北すると、プリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた上に、国際連合での敵国条項にその名を連ねることも無かった。

戦後
アーナンタ・マヒドン王は翌1946年に多少不可解な状況の死に方をしており、公式見解としては銃の手入れ中の暴発事故だという。彼に続いてプーミポン・アドゥンラヤデート(ラーマ9世)が即位し、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。日本の敗北以来、米英を支持した自由タイ(Free Thai、???????)というタイ人の団体の支援によって、泰米関係は軍事面に置いて非常に親密な関係を保っている。

冷戦期は、ビルマ、ベトナム、カンボジアおよびラオスのような近隣諸国の共産革命に脅かされ、タイは共産主義の防波堤として米国の支援を受け、東南アジア条約機構(SEATO)の一翼を担った。ベトナム戦争では米国側に立ち、ラオスおよびベトナムへの派兵を行い、北爆のための空軍基地の開設も許可した。また、タイは米軍の補給・休養のための後方基地でもあったため、バンコクをはじめとしてタイは経済的に発展し、パタヤなどのリゾート開発も進んだ。東南アジア諸国連合(ASEAN)の積極的な参加国でもある。

ラーマ9世期のタイが立憲君主政体であったのは名目上であり、1992年の選挙までの間、短期間の点々とした民主主義以外は、一連の軍政(最も顕著なのはピブーンソンクラームとサリット・タナラットによる)に動かされた。1992年の民主選挙以来のタイは、政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった。

2009年01月23日

エイクリッド(AK)

惑星EDN-3rdの原住生物。人間程度の大きさから数十メートルに及ぶものまで様々な種が存在する。体内に蓄積されたT-ENGは入植者にとって貴重なエネルギーである。AKは一般に人類を外敵とみなし、強い排除行動を取る。対戦モードでのみ人間プレーヤーが一部のAKを操作することが出来る「エイクリッドハンティング」モードがある。

小型・中型AK
セパイア
クモ型の小型AK。群棲する習性を持ち、ジェネッサと呼ばれる巣から次々と湧き出てくる。壁面などをよじ登ったり天井からぶら下がったりと多彩な行動を見せ、攻撃は主に跳躍して人間に頭部の三弁に開く部分を展開して「噛み付く」ことで行われる。ただし動きは遅く、時々立ち止まる。人類がEDN-3rdに入植後に最初に接触したAKで、その亜種も数多く確認されている。
シドセパイア
セパイアの変異体。溶岩地帯に生息している。セパイアと違い強酸性の粘液を吐き出して攻撃してくる。
ボルセパイア
シドセパイアの変異体。攻撃を受けると爆発する性質を持っている。
トライリッド
飛行能力を持つ小型AK。セパイアと同じく群生し、ジェネッサを巣としている。ただし耐久力は極端に弱く、VSの動作に巻き込まれただけで砕け散る。その一方で高速で回転しながら集団ですばやく飛び込んでくるため、足場の悪いところでは転落させられる危険性も伴う。
クラッティス
非常に長い前肢を持った中型AK。好戦的で、AK以外のT-ENGを感知すると延々と追いかけてくる。前肢を器用に使って攻撃してくるが、その付け根に弱点があり、ここを撃ち砕かれるとほぼ行動不能になる。また標的を見ると際限なく追ってくるが、足場の悪いところでは自ら転落するなど、知能はあまり感じられない。エイクリッドハンティングでは、長い前足を振り回しての近距離戦闘から火炎弾を発射しての遠距離攻撃を得意とし、また前進に関してのみすばやく移動するジャンプ移動(操作は人間キャラクターの前転に相当)をすることで間合いを詰めることができる。
ゴアクラッティス
クラッティスの変異体。さらに大型で非常に獰猛。口から火炎弾を吐いて遠隔の敵を攻撃するほか、急速に間合いを詰めてきて前肢や牙で連続攻撃してくる。エイクリッドハンティングでは、クラッティスの操作に準じるが、より大振りな攻撃でVS戦闘に威力を発揮するものの、一部ステージで登場する特大サイズの個体では、逆に大振り過ぎて足元の人間プレーヤーが良く見えないといった面もある。
ドンゴ
硬い外殻と鋏状の前肢を持つ中型AK。尻尾以外への攻撃はあまり効かない。体を丸めて回転することで地形を選ばない高速移動が可能である。また、攻撃目標をみとめるとその状態のまま体当たりをしかけてくる。ただし回転中に爆発などに巻き込まれるとそのまま横倒しとなることもあり、また回転中は標的以外にたいする注意がないのか、地形物に突っ込んで行動がとまることも。エイクリッドハンティングでは、回転と前足による攻撃を行い、肉弾戦に特化していて弱点が正面から狙えないため、単独の標的にとって脅威となる。ただし攻撃がそのまま移動をかねているため、「フィールドから落ちる」種類のステージでは勢いあまって自爆する危険性がある。両前足を使っての挟み込み攻撃は地味な動作の見た目とリーチの身近さの割りに、強烈なダメージを与える。
ジェロン
空中を漂うクラゲ型の中型AK。急所以外を実弾武器で攻撃すると爆発し、幼生のジェライドを撒き散らす。
パラジェロン
ジェロンの変異体。体内に電気を帯びている。急所以外を攻撃すると電気を分散し、幼生のパラジェライドを撒き散らす。
レイビー
ハチに似た中型AK。空中を素早く飛び回り、口から火炎弾を吐いたり腹部の針で攻撃したりする。
スキャルト
植物型のAK。突如地中から出現し、爆発する胞子を大量に撒き散らす。また頭部を振り回して周囲をなぎ払おうとする。対象が離れると周囲に爆発する胞子を降り注がせる。
ニーガル
サソリのような姿を持つ中型AK。水平方向への驚異的な跳躍能力を持つ。武器である尾の部分は見た目をはるかに越えるリーチを持つ。死んだ振りをすることもあり、また闇雲に振り回してあたり一面にダメージを与えることもある。エイクリッドハンティングでは、尾を使った中近距離攻撃が得意で、薙ぎ払う攻撃では前方ないし後方の面的な攻撃範囲を持ち、前方への長い尾を延ばしての攻撃では、効果範囲は狭いながらも狙いを定めることで多大なダメージを与える。反面、歩いての移動は苦手とするところで、また弱点が常に頭上にせり出している。大きな跳躍によって地上の標的に対して飛び掛る攻撃も行なえる。

大型AK(カテゴリーG)
ウンディープ
巨大なワーム型のAK。顎鬚のような感覚器官でVSの動きを察知しているらしいが、その生体の殆どは謎である。巨大な口からブレスを吐き、尻尾からは火炎弾を発射する。人間程度のサイズの獲物に対しては、大きく口を開けて丸呑みにしようとする。側面には弱点があるが、耐久力がある上に巨体の割りに動きがすばやいため狙いが定められず、ことVSを発見すると雪中から突き上げるようにして一撃で破壊する習性があり、その巨体から来る地響きは地上を歩いている人間を立っていられないほどにする。
ウンディーブを撃破すると「Wormハンター」の称号を得ることが出来る。
ゴドン
ドンゴの大型種。洞窟に単体で生息していることが多い。ドンゴ以上に硬い外殻を持つため、急所である尻尾以外への攻撃はほとんど通じない。丸まって回転体当たりをするほか、顎部を大きく伸ばして攻撃する。こちらも回転中に爆発に巻き込まれると横倒しになるが、猛烈な回転力で壁面をも駆け上る。エイクリッドハンティングではカテゴリーG中で唯一登場する。攻撃はドンゴに準じるが、顎を伸ばしての近距離攻撃も行なえる。壁をも駆け上る芸当は出来なくなったが、硬い外殻は正面攻撃に対して絶大な防御力を発揮する。
ウィンディガ
巨大な蛾の姿をしたAK。空中を飛び回り、上空から卵状の爆弾を無数に落としてくる。またその巨大さゆえに、頭上を通過する時は激しい突風が巻き起こる。この突風には絶壁をも縦横無尽に歩き回ることのできるセパイアですらひとたまりも無く飛ばされるほど。ただしその巨体ゆえに地表の対象に積極的に攻撃してくることは無く、もっぱら突風と爆発物の投下以外は頭上を覆わんばかりの巨体に圧倒されるだけである。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

ウィンディガを撃破すると「Mothハンター」の称号を得ることが出来る。
レイビオン
レイビーを更に大きくしたようなAK。普段は地中の巣に住み、外敵を感知すると飛び出してくる。レイビーと同じく火炎弾や尻尾による体当たりの他、護衛のレイビーを放って攻撃させ、上空から炸裂弾を放って攻撃してくる。
クイーン
クラッティスの大型種。巣から動かず、腹部を接地して常時T-ENGを摂取している。クラッティスと同様に前肢を使った攻撃と、口から吐く超低温のブレス攻撃が得意。前肢の付け根に弱点はあるが、体力があるときは何度でも再生する。
ミドリメ
特殊な変異個体と思われる芋虫型の巨大エイクリッド。緑色に輝く4つの目を両側に持つことから、ミドリメと呼称される。遭遇記録は皆無に等しいが雪族、NEVECの双方に名前が知れ渡っている。かつてドーム施設を探索中のゲイルの部隊を襲撃して、これを全滅させた。その後もドームを巣として住み着いている。熱反応に極めて敏感であり、遮蔽物越しでも熱を感知して襲い掛かってくる。口から吐く超低温のブレスと背中から発射される大量の氷弾が武器で、この氷塊は一撃でVSのシステムを混乱させるほどの打撃力があり、初弾で直撃を食らうと連続して直撃される。また、巨体を使った突進攻撃もしてくる。側面の「目」を失うと頭部に新たに4つの目を開いて、更に激しく攻撃してくる。
そのデザインは風の谷のナウシカに登場する王蟲を彷彿とさせる。
テンケイル
セパイアの変異個体。火山地帯の地中に生息し、外敵や獲物を感知して襲い掛かってくる。巨大な前肢を使った攻撃の他に、蜘蛛のような糸を網状に展開させて動きを封じ、寄生した小型のセパイアを放って攻撃したり、腹部から粘液弾を発射したりする。
サイザロッド
頭部と蝕腕のみが地表に出ているAK。隠れている部分も含めればAKの中でも最大とされている。蝕腕を振り回して攻撃するほか、体内に寄生している各種のAKを飛ばしたり、口から巨大な火炎弾を吐き出してくる。

2009年01月16日

庵戸宮(廬戸宮)(いおとのみや)

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

庵戸宮(廬戸宮)(いおとのみや)は、『古事記』『日本書紀』に伝わる古代日本(大和政権初期)の首都として営まれた皇宮(皇居)。

第6代孝安天皇暦102年(紀元前291年)に、第7代孝霊天皇により現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられる。そのため、黒田庵戸宮ともいわれる。ただし、正確な所在地については諸説ある(奈良県史料『大和志料』によると黒田ではなく同町字宮古であるとか、「いおと」という読みから同字伊与戸に置かれたとする説がある)。いずれにしても、孝霊天皇以前の皇宮の多くが奈良県山間部に置かれたと伝わるのに対して、奈良県中央に位置する大和盆地に遷都されたことで、大和国から河内国への進出、吉備国平定など黎明期の大和政権の支配域拡大につながったものとみられている。

孝霊天皇暦76年(紀元前215年)2月に同天皇が崩御し、第8代孝元天皇により軽境原宮(かるのさかいはらのみや、現在の奈良県橿原市見瀬町周辺と伝えられる)に遷都されるまでの間、政権の中枢として機能したとみられる(一方で、この時期は第9代開化天皇までのいわゆる欠史八代の期間にあたり、そもそも『古事記』『日本書紀』自体の信頼性を疑う見方も根強く存在する)。

名称
庵戸宮の「庵(廬)」とは、風流人など浮世離れした者や僧侶が執務に用いる質素な佇まいの小屋である庵室を指したり、あるいは軍隊を管理する陣営を指す(歴史辞書『倭名類聚抄』)ことから、文字通り政権の統括者である孝霊天皇が暮らした住まいに由来するものといわれている。

現在、奈良県や和歌山県を中心に「庵戸(いおと、あんど)」という名称が希少姓として数世帯存在する(この一族は、第7代孝霊天皇の第3皇子を始祖とする末裔であると代々伝承されているが、名前が確認されている5人の皇子(大日本根子彦国牽尊、日子刺肩別命、彦五十狭芹彦命、彦狭島命、稚武彦命)のうち具体的に誰を示すのかは不明である)。

現況(宮跡)
奈良県磯城郡田原本町黒田に、庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)という神社があり、これが庵戸宮の伝承地とされている。ただし、もともとは鎮守社として同町の法楽寺(真言宗、聖徳太子開基)の境内にあったものが、明治時代初期の神仏分離令により現社地へ遷座し黒田村の氏神として引き継がれたという経緯(旧地より移した「明和7年(西暦1770年)」の紀年銘をもつ石燈籠1対により確認できる)の為、現在の庵戸神社は厳密には宮跡とはいえない。

これに対して法楽寺には、庵戸宮跡であったことを示す石碑が建立されている。かつてはここに25宇もの堂塔伽藍が建ち並んでいたが、承元元年(西暦1207年)に全て消失し、現在はわずかに1宇(貞応元年(1222年)に再建)が残るのみである。

庵戸神社には、祭神として孝霊天皇の他、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命をはじめとする皇子皇女を含めた計7神が祭られており、毎年10月9日に大祭式例祭が行われる。

伝説
庵戸宮は、後述する伝説のように桃太郎と卑弥呼ゆかりの地とされているが、伝説を鵜呑みに捉えた場合、 桃太郎と卑弥呼は共に孝霊天皇の皇子皇女として兄妹であったということになり、それら兄妹の生誕の地としても伝えられている。そのため、これらの伝説にちなんで(その信頼性はともかくとして)、共に物語の主役として人気のある桃太郎、卑弥呼というキャラクターを観光PRのマスコットとして利用する向きもある。

桃太郎の誕生地としての伝説
孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)の兄弟は、大和政権の将帥(四道将軍)として温羅(うら)と呼ばれる製鉄に優れた吉備国の武装勢力(地方豪族やそれに与する渡来人の集団と考えられている)を制圧するために吉備国に遠征しこれを平定したといわれている。さらに、両皇子の軍勢は讃岐国、出雲国にまで侵攻し、大和政権の支配を拡大させたと考えられている。ちなみに、このとき両皇子が連れて行った犬飼部、猿飼部、鳥飼部とよばれる役職の家臣の一人が、元首相犬養毅の祖先ともいわれる犬養健命(いぬかいたけるのみこと)であったといわれている。

このような両皇子の活躍や当時の大和政権と吉備国との対立構図が、後世の桃太郎伝説の基礎となったのではないかとの見方が有力視されている。これに関連してか、現在でも岡山県(吉備国)や香川県(讃岐国)では、両皇子をモデルとする桃太郎伝説や温羅を鬼とみなす伝説の伝承地が複数個所存在する。 これらの古の伝承に由来して、両皇子の故郷ともいえる庵戸宮が桃太郎の生誕地として現在にも伝えられている。

また、孝霊天皇自身による鬼退治の伝説や、庵戸宮近くを流れる大和川(初瀬川)周辺に伝わる伝説[1]も、庵戸宮が桃太郎ゆかりの地であると知られる由縁となっている(ただし、前述のように『記紀』の信頼性を疑う見方や、あくまで後世の創作物であることから、桃太郎伝説の由来については本項と異なる説が全国に複数存在する)。

卑弥呼の誕生地としての伝説
邪馬台国が近畿地方にあったとする説を採用する場合、孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を卑弥呼とする説が有力(諸説あり)であることから、その皇女倭迹迹日百襲姫命の故郷である庵戸宮が卑弥呼ゆかりの地とされる(ただし、特に邪馬台国および卑弥呼の正体についてはとりわけ激しい論争の的となることが多く、前述の桃太郎伝説と共にその信憑性が問題視される)。

周辺
庵戸神社の隣には、庵戸池(黒田池)と呼ばれる池がある。 また、その周辺には弥生時代の黒田遺跡や唐古・鍵遺跡、箸墓古墳、古墳時代(6世紀)の前方後円墳である黒田大塚古墳等がある。 さらに、門前の街道は聖徳太子が飛鳥から法隆寺へ通った「太子道」(筋違道)であると伝えられている。